最新記事へ筆者紹介定期購読のご案内メールフォームリンク集ホームページへ
| Home | Cover Story | Profile | Order | Mail | Link |
小泉・安倍・中川の“政治的DNA”

 小泉純一郎首相率いる現在の小泉政権の本質を理解するには、日本の戦後の保守政治の変遷を理解する必要がある。今日の自由民主党(自民党)は、1955年11月15日、当時の自由党(総裁・吉田茂)と民主党(総裁・鳩山一郎)の合併、所謂「保守合同」によって誕生した。政治学用語で言う「1955年体制」である。日本の保守政治は、マッカーサー元帥のGHQ(連合軍総司令部)による占領下の46年5月に発足した第一次吉田内閣によってスタートした。だが、49年3月に発足した第三次及び第四次吉田内閣では池田勇人蔵相(大蔵省)、岡崎勝男外相(外務省)、橋本竜伍厚生相(大蔵省)、福永健司官房長官(内務省)、佐藤栄作郵政相(運輸省)に代表される官僚出身者が台頭(吉田は外務省)したことから、政権党・自由党(総裁・吉田首相)内に官僚派と党人派による政策論争が勃発、党内は徐々に親吉田と反吉田の両派の分裂状態になっていった。そうした中で、巣鴨プリズンから釈放され、公職追放令が解除された岸信介は52年4月、@自主憲法制定、A自主軍備確立、B自主外交展開、をスローガンに日本再建連盟を設立、自ら会長に就任した。一方、反吉田色を強める鳩山は54年11月、同じ党人派の石橋湛山、広川弘禅、三木武吉、大野晩睦、河野一郎らと分党・自由党(所謂鳩山自由党)結成を経て日本民主党を結党した。総裁は鳩山。同党の五大綱領のうち二番目に「国民の自由なる意見により占領以来の諸制度を改革し、独立自衛を完成する」とあることを見落としてはならない。これは、GHQによる占領以来の憲法を含む諸制度改正と自衛軍の創設など当時の保守系野党・改進党や鳩山自由党が主張した民族主義路線に合い通じることであり、同時に岸信介の日本再建連盟のスローガンにも近い。そしてそれは、吉田が確立したサンフランシスコ講和条約体制(51年9月)の部分修正を求め、保守主流派の吉田自由党に対し明確に反対する立場が民主党綱領に集約された。その後、官僚(商工省)出身ながら反吉田の旗幟を明らかにしていた岸も同党に合流した。こうした経緯を経て、保守合同で自民党が誕生したのである。54年12月に誕生した鳩山内閣から石橋、岸内閣まで三代にわたっての党人派系政権が60年7月の第一次池田内閣発足まで5年間続いた。
  こうした背景を踏まえ現在の小泉「改革」政権を見てみると、興味深い事実に気づく。首相・小泉純一郎の父、純也元防衛庁長官、官房長官・安倍晋三の祖父、岸信介、そして自民党政調会長中川秀直の義父、俊思元衆院商工委員長の三人は、全員が「鳩山民主党」に所属していた。ポスト小泉の有力候補の安倍、「小泉改革」のプロデューサーの中川、そして小泉自身が同じ"政治的DNA"の持ち主なのだ。小泉純也は佐藤第一次政権の防衛庁長官、中川俊思は衆院農水委員長で、小泉は岸政権の外相だった藤山愛一郎の藤山派、中川は同じ党人派の河野派に属した。もう少し遡れば、もともと改進党だった小泉は岸が立ち上げた日本再建連盟の推薦を受けて53年総選挙に当選しており、小泉首相の父親純也と岸とはその当時からに関係だ。そして池田内閣以降、佐藤、田中内閣と再び吉田自由党系(吉田学校と言われた)政権が続いた。これが「55年体制」の崩壊をもたらした細川内閣誕生(93年2月)までの官僚主導の所謂保守本流政治である。その保守本流政治も2001年4月に「自民党をぶっ壊す」と言って誕生した小泉政権の下で、「政・官・業のトライアングル」による田中角栄的政治の継承者だった竹下登が築いた派閥・経世会(旧竹下派)支配が崩壊されたことで、その様相は大きく変わった。即ち、72年の"角福戦争"で田中角栄との権力抗争に敗れた福田赳夫の派閥・清和会(現森派)が永年の党内非主流から今や最大派閥として甦ったのも、ある意味では、鳩山民主党を源流とすることからの歴史的必然と言えるかもしれない。さらに、政策的に見ても、頷けることが少なくない。外交面では対米協調を基軸とするということでは、鳩山」民主党―保守非主流派―清和会と吉田自由党―保守本流―経世会とは差異がない。が、対中国政策では、田中角栄の親中国、福田の親台湾で分かるように、大きな違いがある。また、内政面では、憲法改正志向が強い前者は「小さな政府」論であり、憲法改正に慎重な後者は「分配重視」論である。こうした基本スタンスの違いを勘案すると、小泉政権下の05年の自民党結党50週年大会で憲法改正草案が正式採択されたことは大きな政治的意味を持つ。詳しくは拙稿『現代』(3月号)をご笑覧下さい。